ミトコンドリアとパワーバランス
引っ越した。それもかなり遠くへ。
温泉特有の硫黄の匂いを全く感じない、千葉での生活が始まった。(始まって2週間位経った)
日が落ちるのが1時間ほど早くて、秋風が時々肌を刺すように吹いている。新生活が始まって、新たな出会いが多い中、実はもう10月を過ぎていてあと2ヶ月も経てば年を越えるという事実に未だに体がついてこれていない。
1人で生活するのは割と楽しく過ごせていて、
平穏無事な日々ができる限り長く続いて欲しい。
環境というものは必然的に変化を繰り返していくものである。例えば、幼稚園で遊んでいた子ども達が小学校に通い始めると、えんぴつを握り45分間じっと座り続けるようになる。中学生になると、色恋沙汰でわんやわんやしだすし、部活動に参加したりしなかったりする。高校にもなると、今までの友人関係の作り方とも違ってきて、「いっつも遊べるおもしれーヤツ」だけとの付き合いから、ちょっと大人な、「いっつも一緒にいても楽なヤツ」とかとの関わりの良さを知ったりする。大学になるとどうなるのだろうか?自分はまだ齢18のペーペーだから、そこら辺はまだよく分からない。
でも変わることばっかりかと言われると、自分は小学生の頃から音楽は好きだし、人間と関わるのも嫌いじゃない。楽しいと思う基準の根幹となるようなものは実は殆ど変化していないような気もする。
今気がついた。
俺、あと2ヶ月足らずで19歳じゃん。
はやく酒が飲みてぇ。
自分の現状を正確に理解し、自分がより良く生きていくための術を身につけようと奮闘するのは真っ当である。そのために人間は学び、得て、変化する。このサイクルは人類滅亡まできっと変わらない。
『受け取る力がなければ与える力も身につかない』という言葉は凄く的を得た言葉だと思う。
読解力が無い人間の書いた文章は稚拙だし物足りない。
英語を聞き取れない人が外国でペラペラに会話ができる、なんてのもありえない。
人間、インプットとアウトプットはどちらも大切で相互補完的になっている。
水鉄砲も水を貯えなければ水を出せない。
製氷機も水を入れなければ永遠に氷は出来ない。人間も実は同じふうに出来ていて「何かを蓄えなければ何かを出せない」のではないかと思うことがある。
このことは、考えようによってはどうやらとんでもない事を証明している感じがする。
何かがないと何もできない。そう考えると
人間は何か得ないと何も出せないのだから、人間そのものには何も無いことになるのではないか??と漠然とした不安に猛烈に襲われそうにもなる。
(時々、何も無いところから有を生み出せる奴がいる。それが天才と言われる人種で、そんなやつからすると漠然とした不安なんてものは一切なく、ほへ?とした感覚で私の文を読むのだろう。全くもって羨ましい限りである。天才という言葉についてはまたいつか話そう)
その点、ミトコンドリアは天才だろう。
海水の中の有害物質だった酸素を取り込んでみて、自らエネルギーを作り出すことを可能にしたのだから。正しく無から有を生み出した第一人者(第一単細胞生物)だろう。
そこから様々な進化や分岐や変化を繰り返し、
今に至るのだから恐れ入る。
何かクリエイティブな生き方をしている人に問いたい。クリエイティブな人の大抵の人は、これは自分自身に当てはまるものがあるのではないだろうか?
自分がむかし好きだった、或いは今も尚好きなものがあるせいで、自分の作る作品にまで影響を及ぼす。という現象。
クリエイティブな生き方をする上で、この現象を経験したことのある人はかなり多いのではないかと思う。
昔父の影響で、アメリカンロックを良く聞いていたことが関連して、自分の音楽に繋がっている。とか。
とある小説家の世界観が好きで今も昔もよく、読んでいたことから、自分の文章にも少なからずその人っぽい部分が露出したり見え隠れしたりする。とか。
『「得た」から「出る」』
そして、
『「得てない」ものは「出せない」』
ミステリーを読む経験が多いと、自分の作る物語でよく人が死ぬ。恋愛ドラマを見たことの無い人が「はい、私、恋愛ドラマの脚本作ったよ!」なんてきっと出来ない。
この話で、自分がどこに持っていきたいかと言うと、「インプットは大切」というのもあるが、そっちではなく「では、人間には何があるのか?」なのだ。話の持っていく技術がまだ要領よく「得ていない」から上手く「出せない」。ご了承ください。すみませんね。
半ば強引なテコ入れをした。本題に入ろうか。
今述べたように考えると人間には何も無く、何かを得なければ何も出せないただの物質のように考えられる。クリエイティブな人からすると果てしなく悲しく虚しい事で、人によっては死にたくもなるのでは無いかと思う。
私はこう思うようにしている。
『「どう」出すかが自分だ』と。
何かを得て何かをみんなが出している。
そこはきっと永久に変わらない。
しかしどう出すか?どのように得た知識や視点やノウハウを出力するかは自分次第だ。と。
考えるようにしている。
水を「得て」、
製氷機は氷にして「出している」
水鉄砲は勢いの激しい水を「出している」
スプレーは広い範囲に霧を「出している」
植物は太陽と組み合わせて糖を「出している」
どのように出すかはそのもの次第であって、同時にその人次第なのではないだろうかと思う。
さらに言えば、道具の形状が変わればまた変わる。
よくある四角い氷ではなく、ガリガリ君のような形でアイスを作るシリコンケースもある。
内部の仕組みが変われば、ものすごく遠くまで飛ぶ水鉄砲もある。
スプレーだってスプレー缶のように細かく中身を出し続けるものもあれば、シュッシュと一定量決まって出すものもある。
「人間には何も無いのか?」に対する答は、
多くの人がきっと何も無い所から始まる。で、
「人間には何か有るのか?」に対する答は、
何かはある。それが何なのかは分からない。でもある。である。
生きていれば何かしら得るだろう。
それは水のようなもので、どこから出て、どのように出るのかは人それぞれなのだろう。
言葉として、出てきて文章になる事もあれば、
音楽として、出てきて楽曲になる事もあり、
動きとして、出てきて踊りになる事もある。
そこからも更に更に無限の違いがある。
「自分には何も無い」とぼやき、言い訳にして生きている人を往々にして見ることがある。
自分はそんな人を見る度に、
そんなの分かりきっていることなのになぁ
と思う。
無くて普通。
得ていこう。
出せて上等。
はじめっから何か持っている人間なんていうのは、「チートみたいな特殊能力をもって異世界転生した奴」みたいなもので、
そんな奴がウヨウヨしていたら地球がオワコンになってしまう。神様はきっとそういうパワーバランスもきちんと守っている。
自分の中身のなさを卑下していじけるのは
もうやめにしよう。
人間、どう生きるかが大切なのだと思う。
自分が得たものを大切にして、絶対放すまいと必死に抱き寄せる。その抱いている形をしっかりと感じ取り、生きていく。
きっといつかそれが変化を繰り返し、
自分の出力する形となる。
明日は、一人暮らしで生きていくために
水と食料を手に入れないといけないので、
ここら辺で眠ることにする。おやすみ。